昭和40年8月21日 朝の御理解



 この、18日のおー月次祭に、庭作りーの、素人でも見ればわかるような、本のお供えが2冊あっておった。高いもんですね、あれ一冊これ位の本が1000円もする。ああもう写真入りで、見事な本です。最近、それをひまひまに読ませて頂くわけなんですけれどね。庭作りの、ポイントになるもの、ポイントになるところ、というのは、あー必ずその、庭には泉水がありましたり、そして植え込み。そしてその、石燈篭というようなその燈篭が置いてあるわけなんですね。いわゆるそこにそのポイントになるところは、燈篭を置くところらしいですね。燈篭を据えるところがその庭造りのポイントになる。どんなに見事な石を並べても、植木を植えてもです、ただ、それが羅列されておるだけ。ただそれが植え込まれておるだけ。ただひろいだけ。それでは、その庭は、良い庭ではなくてまた、それでは死んでしまう。ね。もちろんそれに、いー自然の背景、ね、海の背景にするとか、山を背景にするとか、または泉の水、谷にの水といったようなものがその庭に引き入れられるような、自然の恩恵をです、その庭に引き入れられるような、ところであればもういよいよ、それは条件に叶うわけですね。そういうようなことを今度、まあその本を読ませて頂いて、まあ知る事が出来たんですけれども。
 んー、お互いの信心を、させて頂いておるそのポイントになるもの。同じ(お日参り?)をさせてもらう、同じ御用をさせて頂いておる。ただ、その庭作りにたくさんの木を寄せたり、見事な石をただ並べたりだけではいけない。そのポイントになるところです。ね、しっかりしておって初めて、庭全体が生きるように、その信心が生き生きとしてくるのです。みなさんどうでしょうか。どこにポイントがおいてあるでしょうか。これはもう本当に大事なことだと思いますね。信心のけいこをよしとさせて頂くとこう、もう一つの信心の焦点、修行の焦点。そのポイントになるところ、がはっきり分かってからの、信心の稽古になったらそれが生き生きとしてくる。
 例えて、まあいうならば、この方は人が助かりさえすればよいとおっしゃる。ですからもう私人が助かるということだけに焦点をおいておる。例えばお導きならお導きのことだけに焦点を置いておる。ね、例えばお取次ぎの先生がです、もう私は他には何にもない。人が助かりさえすりゃいい。というところに焦点を置いておる。実にそれは、あー、立派なことであるようであるけれどもです、ところがそれはポイントじゃないです、それでは。それではポイントにならんです。ね、そりゃ色々ありますでしょう。お参りはお参りするでやっぱりあるから、ね、お取次ぎを頂いてお願いをしていきゃ商売も繁盛するから。ただ、商売繁盛のお願いのことだけに、じゃ焦点をおいて、そこにポイントをおいての信心のけいこをしておる人がおるかもしれんけれども、こりゃあもちろんだめですね。
 私共、泉水なんかというのは、あー、まあ素人の考えでは、あー、まあちょっと見ると、泉水がちょっとポイントになるような感じがするんですね、中心にこうあったりするんですから。ね、いわゆる、木漏れ日の、自然の恩恵を頂き、そこに水が引き入れられる、まあいうならば、ここは信心で頂けば、おかげならおかげということでしょうね。おかげの水がどんどん引きいれられる。いわゆる泉水なら泉水作りが庭つくりのポイントであってもそれではよい庭ではありません。泉水そのものが立派でありましても、引き立ちません。庭が。ね、やはり、こうまとまったというか、その場が引き締まるというか、ね、そのポイントになるところは、二冊の本にどちらでもそれは書いてあるんですけれども、やはり、灯篭のあるところが一番ポイントになる。ところがその、なら灯篭さえそこに付ければいいかというたらそうではない。灯篭のあるそこんところをです、ポイントとして、そこが、その庭全体が引き締まるような風にならなければならないというわけなんですね。
 昨日、ある婦人の方が毎日お参りをしてみえるんですが、お夢を頂かれたんですね。そしたらですね、ここからスイカをいただかっしゃった。スイカちゃいつも親先生が修行とおっしゃるから、自分がさせていただいておるこの修行のことを神様が下さったんだろうとこう思うた。ね、スイカていうのは、いわば本当に、いー、火や水の行に匹敵するような修行というわけなんでしょうね。ところがです、そのスイカをこうひっくりかえしてから、後ろんところに、ありゃへそち言いますたい。ね、後ろ。スイカのへそち言うです。そこんところにこうやってから、三角をつけられるところをいただかっしゃった。こりゃ先生どげなん意味でしょうかち。みなさんもしっかりスイカの修行に匹敵するような修行をさせて頂きながらです、へそんところに三角をつけられたんじゃあつまらんですね。やっぱこうまるまるをつけてもらわなん。ね、いわゆる、しゅ、修行の中心、修行のいわゆるポイントになるところがです、まちがっとりゃせんかとおきづけを頂いているわけなんですね。お参りをしておる、御用も頂いておる。ね、一生懸命なら、信心をさせて頂いておるんだけれどもです、いわゆるスイカの修行のような修行もしておるんだけれどもです、ポイントがちがっとる。中心が違う。へそに三角がつけられておったんではだめだ。これはまあそこんところを一つ考えなきゃいけんのじゃないだろうかと私は申しましたことでした。
 ★今朝、私はお夢に、熱心にここんとこ信心修行をしております。ね、ところがあの、久留米の石井きよしさんですね、石井きよしさんがその方にですね、もういくら泡たってっちゃせっけんちけにゃだめですよちいうてからポケットから石鹸出してからその人ば洗いなさっとるところば頂いた。一生懸命な信心修行がでけておる。その人もです、いくら磨くというても洗うというてもです、石鹸付けなんおてんところはおてんですよ。あかぬけはしませんよち。という意味でしょうね。いくらあらたっちゃ石鹸つけなんだめですよちいうてその、ポケットからその石鹸を出してやられるところを頂いてる。それも、それと関連して私は感じるのですね。

 ★今朝またご神前に出らして頂きましたらです、昨日、昨日最近、ここ何日か読ませて頂いておるその、おー、灯篭のですね、灯篭のこの正位置というですか、それを、おーポイントになっておるのであろう、本当に(素人が見らして頂いても見事な?)庭なんです。しかもその、灯篭があかあかと、あかりが点じられているところを頂いた。そして、今日のご理解を頂いてるんです。ね、庭つくりのポイントになるところは、泉水でもなからなければ植え込みでもないと。それは灯篭のところにあるということ。果たしてお互いの、信心の庭つくりがです、灯篭のところにポイントをおいてあるかどうかということを一つ確かめてみなければいけませんですね。ね、その商売する人が商売繁盛を願わんはずありゃしません。ね、かとよめごの人は、家庭円満をねがわんはずはありません。体が悪いならば、どうぞ、健康のおかげを頂かせて下さいというて、その健康のおかげを願わんはずはありません。ね、また願いもしなければなりませんけれどもです、その健康やら人間関係やら、ね、商売繁盛やらがです、ね、それをとおして、信心の焦点というかポイントというものがおかれておかなければならんのです。ね、私は三年お日参りをした、十年お日参りをしたというてもです、その信心の焦点になるところ、ポイントになるところを間違えたのではです、おかげにならん。いやそれでは惜しい。本当のおかげにならんということ。もう大事な事なんですからですね。間違いのないところに、そのポイントをおいての信心のけいこでなからにゃいけません。ただ広広と、庭を造っただけではいけん。ただ名木と言われるような木をあちらこちらにたくさん植えただけじゃいかん。ね。
 私はニ、三ヶ月もなりましょうかしら。吉井の杉さんのおじさんのお宅に、庭を拝見に行った。ほらあもう広々としたところにですね、それこそたくさんの名木が植え込んでございます。ところがです、座敷から見たところの庭というものは、ほんのその正面だけしか見えん。ずーっと奥の方まで見えん。どうしてそういうような庭がつくっておるかというと、道はちゃあんとどこまでも、奥の方までも、川が取り入れられたり、山が築いたりしてあるんですけれどもね。そりゃ、見事な、そのまあいうならまあ庭のようなですけれども、私その、おしょ、あん、庭作りの本を見せて頂きよったら、ははあ、あの庭はよい庭ではないんだな、そりゃあもう見事な木がたくさん植えてあるです。もうこう大きな( ? )したごと大きな色んな木がですね、植えてある。なぜそういう風にですね、そういうような名木を集められたーりー、そのこう、その庭を造られたかというとですね、それがご主人という人が目が見えなかった。その杉さんのおじさんという方が目が見えない。ですから、必ず庭に出て散歩をされるから道をきれいに作ってあるがです、その道の要所要所にはです、りっぱな例えば(もみ?)の木がある。ほらあもうよそに、どこにでもないような大きなその(   ?  )ですから、もう岩でもなんでも大きないわがある。その道々にです、こうやって目でみなさるわけじゃなかってす。手で探っていきなさるわけなんですね。ですから、はあ、この木は大きな木だなとこうなでまわしてから、その庭をこうこう回られ、散歩されるわけなんです。ね、ですからその庭造りの第一、焦点が見るための庭ではない、なでるための庭であるということですたい。ね、もうそれだけのたくさんの銘木が集めておるから、素晴らしいなと思うけれども、例えばその庭造りの私は本を見せて頂いてからです、なるほど庭というものは、なるほど、ずーっと奥行きがどこまであるやらわからんような感じでなからなければいかんけれども、あんまり大きな植え込みをしてあるから、せっかく肝心要の座敷から見てから、ほんな前だけしか見えない。ね、お互いがです、目が見えんとですね、結局そういうような結果になってしまうということ。信心するものは肉眼をおいて心眼を開けとおっしゃる。心の眼をひらかにゃあいかんです。ね、心の眼を開く。どういう、例えば今申しますように、庭作りのポイントというのは、必ず灯篭のある場所がポイントになるということだということ。泉水でもなからなければ植え込みでもないということ。果たしてお互いの信心がポイントがです。ね、お互いの信心の庭作りがです、ただ植え込みだけはしっかりできよるけれども、泉水だけは広々とできよるけれども、ただなでまわしただけの植え込みであったり、お恵みの水を引き込む為、おかげを頂くことのためだけの庭造りをしておるようなことはなかろうか。せっかく信心のけいこをさせてもらうなら、せっかく庭を作らせて頂くならばです、きちっとした、そのポイントの、きちっとした庭を造らなければならない。庭全体が生きてくるためにもです、灯篭のある場面をしっかりぬっていかなければならない、工夫しなければならない。ね、せっかくスイカの修行をしているようであっても、ね、その婦人の方があー、お夢を頂いておられますように、神様はスイカの行として受け取ってござる。修行しておることは受け取ってござるけれども、その修行のポイントが違う。へそんところにこう三角がかいちゃった。スイカのへそんところに。どうでしょうか。皆さん、はあ、自分も修行しよるばってん、自分もいわばへそんところに三角が書いてあるようなことがなかろうかと思うてみなきゃいけません。せっかくスイカの修行をさせて頂いておる、せっかくお参りをさせて頂いておるのであるから、そのお参りの焦点がです、ね、へそといやあ中心でしょう。そのお参りの中心が、何うえおいてあるかということ。ね。ここんところをです、みなさんが本当に焦点にされるなら、信心がぐいぐい進んでいくでしょね。どんどん成長するでしょうね。間違いのないところに焦点をおかれたら。ね。今朝私が頂いとるお夢の中に、石井きよしさんも、その方も熱心に信心ができるんだけれども、石井きよしさんが言うておられるのに、ああたも洗うだけじゃいかんですよち、いわゆる磨くだけじゃいかんですよて。石鹸つけなきゃいかんですよというてその、石井きよしさんがその方に石鹸を渡しておられる。石井きよしということは、私は、やっぱ石井、石井きよしという名を、いただかれ、ご理解に(下さった?)と思いますから、石井きよし。石井きよしとは、いしは井戸の、おー、喜びを司ると書いてある。ね、その石井きよしさんから本当に石鹸を頂いて。ね、そうでしょうが。(どんなに?)油がついておるなら落ちやせんでしょうが。石鹸つけたらすとっと落ちるでしょぅが。石鹸つけずに(?)泡たちゃだめだということ。ね、焦点を間違え、ポイントを間違えての、いくら修行であってもです、そりゃ修行は受けて下さっておっても、その修行は三角だということ。せっかくですからおしいでしょうが、皆さん。こうやって私がお話しをしてまいりますとです、みなさんがそれぞれ心の中に感じておられるだろうと思う。ははぁ、自分のは焦点が違う。ポイントが違う。これだけ難儀なことがでけても、(いわゆるたくさんの  ?  )できるかもしれんけれども、(?)にはならんなということが分かったらです、今からでも遅くはないのですから、ポイントを、燈篭のあたりを工夫しなければいかんのです。ね、私が今日ご心眼に頂きます、その、おー、庭にです、なるほど、(?)やらせて頂く、そのままに、なるほど、なるほどこの塔のあるところがポイントになるんだなと思うように見事なお庭にです、燈篭が立っておる。しかもその燈篭にです、灯りをこうやって入れておるところを頂いてから、今朝の御理解を頂いております。ね、惜しいです、でなかったら。ね、信心のけいこをさせて頂い、頂くのでございますけれどもです、その信心のけいこのポイントがです、違ったんでは。どうぞ、今日私が、こうずっとお話しをしてまいりましたそのことをです、ね、そのまだ言葉不足、表現できてないとこはたくさんありますけれども、みなさんが、日頃頂かれる御理解からヒントを得られたらです、はあ、これがな、そこだなということが分かります。ね。自分が、信心の進み方こそ間違わないだろうと。教祖の神様はです、此の方は人が助かりさえすればよいとおっしゃった。だから私は、人が助かる事さえすればよいということだけに、焦点をおいておるという人がです。ね、ならそれが間違いないかというてですね、そう思うとるだけじゃいかん。本当に人がたすからなきゃいけん。してみると、そこんところに思い込みをもっているというだけでは人は助からんということ。自分自身が、ね、落とすあかを落とさせてもらい、自分の心の中に、灯りが点じられるような、修行でなからなければだめだ。そういう修行をさせて頂いて後に、人が助かることさえできればといったようなことになるのはもう枝葉なんだ。いうならば。ね、もっともっとその元になるもの。ね、そうでしょうが。人が助かる為には、まずは自分自身が力を受けなければいけないでしょう。ね、自分自身に光を頂かなければいけないでしょう。せっかくの修行の、ならスイカのへそに三角がつけられておるのではなくてです、ね。修行を受けて下さるならば、その修行そのもののポイントがです、目的がです、そういう意味合いにおいての修行であるかどうか、お参りであるかどうかということ、御用であるかどうかということを、私は思わなければです、惜しいでしょうが。ね。今繰り返し申しました。お互い、信心の稽古をさせて頂く、いわゆる信心の庭造りをさせて頂きます。どんなにお金をかけてたくさんの、おー、名木、名石といったような、石やら植え込みを植えましてもです、ただそれが植えられただけ、その石が並べられただけ、その(?)が(?)だけではいけません。ね、ポイントになるところ、しっかりつかんでの庭造りでなからなければならないと。信心も、同じこと。どうぞ、ポイントを間違わないように、間違えておるならそこを改めてです、思い方を代えての、修行にならなければならんと思うのです。どうぞ。

                                  池尻てるか